@アメリカインディアンのある部族には美しい儀式がある。子供を身ごもると、未来の父と母は一番高い頂に登り、朝一番の太陽を全身に浴びて胎児にかたりかける。「世界はこんなに広く、こんなに美しい。世界はお前の誕生を待っている。」と
A人間というものはもともと、いくつかの条件さえそろえばどんな残虐なこともしかねない存在であり、いわゆる「子ども」といえども決して例外ではありえないという事実にもう一度目覚めることだ。その上で、その条件としてどのようなものが数え上げられるのか、また人間の残虐性のあらわれ方歴史の中でどのように変遷してきており、その変遷にはどんな意味があるのかを冷静に確認することである。
B個であることのかけがえのなさと、個性的であることの価値とはもともと重なり合わない。個性的であるとは凡庸さのなかにあってひときわ目立つということであるから、それを人間としてより価値の高いことであると認め、誰もが実現すべき目標と考えるなら、その指向性自体は、凡庸であることの否定を含んでいる。
他方、個であることのかけがえのなさとは、すべての人間は一個の存在として等しく尊重されるという意味であり、人間の値打ちはそのかぎりでは、凡庸であるか個性的であるかにかかわらないということである。「個であること」の尊重とは、別にその存在が際立った個性を示さなくても、一人の人間であるかぎり、他の個性ある存在と等価なかたちでその存在理由を認めましょうということである。
このように個についての二つの価値原理は、究極的に和解不能な矛盾を含んでいる。
Cみんなの命がみんな同じように大事だということは、裏を返せば、それぞれの個人にとってどの人の命も同じぐらいの重みしか持たないという感覚を許容することに通じる。それは同時に、集団の中で、たまたま目立つ誰かを排除し、いじめ殺すことが、自分の愛憎のゆくえを決定する意味を持ち得ないということを意味する。「いじめられ自殺した彼」は、「生き残っているこちら側の誰かれ」にとって、特別にかけがえのない意味を持つということのない、一つの抽象的な命の消滅でしかないからである。 以上◇この国はなぜ寂しいのか 小浜逸郎
熊さんの個人的解説
@いいですね。私も孫を連れて稲荷山のてっぺんにでも登って、世界はお前を待っていたと言うてみましょう。
A夜と霧でフランクルが、ワイルドスワンでユン・チアンが、「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。」と書いていたのを思い出します。
B養老孟司先生は、体は、拒絶反応でもわかるように全てが個性的であり、精神が個性的な人はちょっとまずいとおっしゃっていましたね。
C死の重さはその亡くなった人とのかかわりによって大きく違ってきます。尊属殺人という特別な罪状がなくなった意味を私はまだよくわからない。